小説

記憶のない海

前編

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太平洋を何と呼ぶか知っているか?

記憶のない海

 

映画 ショーシャンクの空に より

 

 

 

「早い話が、ドブさらいさ。」004が言った。

「そんな物、どうでもいいのだ。」彼の上官が切り捨てた。

 

何気ない言葉は、僕の心の奥に棘になって残り、時折、思い出したように疼いた。

 

 

僕が008からメールを受け取った時、すでに約束の日の前日だった。

派遣されたのは002

 

どうかな・・・

敵に回ったら、彼は厄介な相手だろうか?

 

用心するのは、あの俊敏性と、鋭い勘と、予測不可能な行動。

やっぱり困るなぁ。

でも、予定変更はなしだ。

せっかく掴んだ手掛かりなんだから。

 

もしもの時のためにとコズミ先生が持たせてくれた新兵器が役に立ちそうだ。

僕はバッグから、いくつかのパーツに分解された強化樹脂の銃身を取り出し、組み立て始めた。

 

以前、0011の攻撃を見たコズミ先生は開発意欲をいたく刺激されたようで、BGの秘密兵器とそっくりな物を作ってしまった。

トリモチのような粘着剤は コズミ先生は独自の生化学の知識をもりこんで、さらに改良されていた。

 

「これはの、ほっほっほ。ゲル化した有機溶媒の一種でな。通電すると分子構造が変わるんじゃ。発射した直後はべたべたして体の自由を奪うのじゃが、微電流を流しただけで水溶液になって、流れ落ちる。おまけに環境にも人体にも無害じゃ。」

 

すごいですね と感心したら、子供のように喜んで説明を続けてくれた。

 

「加えて、水分量に影響を受けやすいから、乾きすぎると固形化してもろくくだけるし、水をかけると粘性がなくなって、すぐに切れてしまう。

 

つまり、間違ってからめ捕られても12時間もしないうちに捕まった者はくだいて脱出できるし、水をかければ即溶け落ちてくれる。

ねばねばが簡単に洗い流せて、服についても洗濯オッケーじゃ」

 

先生は作り上げた粘着剤をバズーカのように発射する銃まで作ってしまった。

 

近年の3Dプリンターの目覚ましい進歩が、知識はあっても職人の技術を持たない先生の手助けをした。

 

科学の進歩は、やっぱり危険なおもちゃかもしれない。

 

その3Dプリンターは先生の教え子が、モニターとして最新試作機を届けてくれるのだそうだ。

 

「ほっほっほ・・・。あやつは就職が決まってるのに、卒論が間に合わんでな。いよいよとなって、わしに泣きついてきたんじゃよ。」楽しげに笑うコズミ先生。

 

相変わらず顔が広いなぁ。

どこへ行っても、コズミ博士に頭が上がらない人だらけだ。

 

今でこそ、辺鄙な海辺で一人で暮らしてるけど、大学で教鞭をとってたころは どんな活躍をされてたんだろう?。

 

でも、たくさんの人に係わるっていいことばかりじゃない。

善意でしてあげたのに それを利用されて被害に遭ったり、踏みにじられたことだってあるはずだ。

 

人嫌いになった事、ないのかな?

失礼を承知で、一度尋ねたことがある。すると先生は笑って言った。

 

「いやいや、こりゃ 自分の為にやっとる事じゃよ。もうこの世に別れを告げねばならん歳なんじゃが、欲張りなもんで 出来るだけ長く何かを残したいでの。

一番長く残るのは人にしてあげた事じゃからな。」

 

僕らはコズミ博士にすごく迷惑をかけてきたから、もしコズミ博士が打算だけの人だったら、とっくに出入り禁止になってるはずだ。

 

だけど、いつ来ても、どんなひどい状態でも、笑って扉を開けて迎え入れてくれた。

 

根っから人が好きで世話好きなんだろうな。

いい人だな~

なんて思ってたら、

 

「老人の悪巧みにおいそれと感動しちゃいかんよ。島村君。」

いたずらっぽく笑って皺だらけの瞼でウィンクを返されてしまった。

 

 

 

そんなやり取りの末で借りてきた「トリモチバズーカ(と僕が勝手に命名した)」をモーテルの一室で組み立てて、ぼくは小型パソコンといっしょにバッグに詰めた。

 

ついでに、工作気分でコズミ博士と一緒に作った改造スタンガンもいれておこう。

トリモチを溶解させる微電流を流す道具だ。

どれも使わずに済むなら、それに越したことはないんだけど。

 

 

 

明日、会う予定の人物はベリンガーという。

ファーストネームは知らない。本名か偽名かなんて意味がない。

 

彼はブラックゴースト(BG)にいたころからこの名前を使っていたから。

 

彼は二か月前、僕が科学サイトに出品した品に興味があると連絡してきた。

何気ない風を装って、それでいて決して他者には譲りたくない気持ちが垣間見えた。

 

僕は 彼が・・かつてBGに所属していた科学者なら誰もが欲しがるものを 提供できる。

 

彼の方は 僕の欲しいものを持っているだろうか?

 

元ブラックゴーストの科学者でも、部署によっては存在さえ知らない人もいる。

だけど他に思いつけなかったんだ。

 

明日、着ていくコートのポケットに、サイトに出品したメモリカードを入れた。

中には消滅したはずのBGサイボーグ技術が入っている。

 

 

 

取引場所に付いたのは、約束より3時間も前だった。

そこは街からかなり離れた内陸の工場地区で、宿をとった街同様かなりさびれた印象をうけた。

 

今はレイバーデーの休暇中。

すべての工場は稼働を止め、縦横に走るアスファルトから立ち上る陽炎だけが静寂の中でゆらめいていた。

 

近代化の波に乗り切れなかった巨大な建物は、明るい日の光の下に灰色の影を落としていて、この暑い季節に空虚な寂しさを醸し出している。

僕は取引場所の、今は使っていない食品工場の扉を押しあけて入った。

さびた蝶番の軋みが、巨大な建物のからの内部に響いた。

 

僕は工場の内部をゆっくりと一周した。

ベルトコンベアや充填装置が迷路のようにあちこちの機械に接続され、そのいくつかのパイプはコンクリート床を貫いて下水へとつながり、天井にはつるされたダクトが通風孔へと延びていた。

この配置や構造は昨日までの下調べで一通り頭に入っている。

 

壁際にはいくつもの巨大な冷蔵・冷凍室が並んでいた。内部をのぞいてみると当然電源は入っておらず、長期間閉じ込められよどんだ空気がいやなにおいを放った。

 

それにしても暑い。

 

この季節、空調の効いてない閉め切った工場の中だから仕方ないけど、僕の今の服装が最大の原因だ。

 

大きく肩をいからせたコートは体型を隠すため、胴回りにたくさん詰め物をしてる。

国籍不明にするため、ちょっとばかり中近東の入ったデザインを選んだ。

つばのない帽子を深々とかぶり、えりは立てて、お約束のサングラスはもちろん黒で、肌にも褐色のドーランを塗っている。

 

サイボーグでなければ30分で熱中症だな。

 

002にも 取引相手の科学者にも 009だとばれないように 変装してるつもりなんだけど

今の季節にこの格好はやっぱり不自然だろうな。

でも声と違って容姿は簡単に変えられないから仕方ない。 

 

僕は嘘も苦手だけど、変装もてんで下手だ。

 

昔、南極で敵の基地に潜入するため、ペンギンの着ぐるみに入ったことがあった。

 

それでバレなかったんだから、僕らだけでなく、敵もどうかしてたに違いない。

そういえば、あの時、オーロラが出てた。

僕らの機械の脳も、やつらの基地のコンピュータも何もかもが磁気嵐でおかしくなってたんだろう。

 

今思い出してみると、ぞっとする笑い話だ。

 

 

腕時計は約束の時間を指している。

 

002はもう到着して、どこからかこの建物を見張ってるだろうか?

脳波通信を傍受できたらいいんだけど、こっちも気づかれる恐れがあるからなぁ。

 

加速装置も使えない。

002だけでなく、取引相手にまで 僕だとばれてしまう。

結構禁じ手が多いな。

服も厚くて動きにくいし。

 

僕は溜息一つついて、頭の中で手順を復習し、ポケットのデータカードを確認した。

 

大きな軋みを響かせて、工場の扉から強烈な西日が差した。

額が大きくせり出した老人が 工場の外をうかがいながら、扉の隙間から体をすべり込ませてきた。

 

緊張した様子で、今度は工場内の気配を探って、視線はきょろきょろと落ち着かない。

薄くなった頭髪、少し左に傾いた姿勢、僕と同じ黒いサングラスと夏の休日に不似合いなスーツ。

 

取引相手だ。

 

「ベリンガー教授。」

僕の声に、相手は飛び上がってこちらを確認した。僕は工場の機械の陰からゆっくりと博士に近づいた。

「き・・・君はQか?」

「そうだ。ベリンガー教授か? 」

教授は持っていた大小のカバンを抱きしめて僕を見上げた。

顔色は蒼白で、逆に額には冷や汗がたらたらと滴っている。

まるで追い詰められた小動物みたいだ。

 

僕の声は今、喉に変声装置を仕込んで変えてある。ちょっと低くしすぎたかな。

怪しげな格好と相乗効果で、凄味がありすぎるかも。

 

ベリンガーは震えながらうなずいた。

「そ・・・そうだ。例の物は…持ってきたか?」

「その前にこちらも約束の物を見せていただこう。」

科学者は緊張で震える指で、持っていたビジネスバッグを開いた。中には札束がぎっしりと並んでいる。

僕は精いっぱい重々しくうなずいて、

苦手分野に挑戦し始めた。

 

僕の調べたところ

ベリンガーは 悪魔の組織が滅びた後、カスピ海周辺の ある小国の大学で やはり兵器の開発にたずわさっていたらしい。

 

あの辺りは冷戦終結後、それまでソ連に統合されてた小国が勝手に自国の利益を追求して、あるいは大国ロシアの顔色をうかがいながら、兵器の横流しや軍事開発を進めてるらしいから、ベリンガーのようなはぐれ科学者がもぐりこむ余地もあったんだろう。

 

ベリンガーは 表向き大学の客員教授をしながら、軍閥とマフィアの間のような組織とつながって、開発の他、旧ソ連の保有していた兵器の横流しにもかかわっていた。

 

そんな闇ビジネスのトラブルか、単に開発で成果がでなかったためか、ベリンガーは関係していたマフィアから消されそうになった。

 

ところが、その組織はブラックゴーストほど内部規律の徹底したものではなかったらしくて、ベリンガーは逃げ出して国境を超えることに成功し、ついでに研究費の一部を持ち出すことにも成功した。

 

後半の「金の持ち出し」さえしなかったら、そのまま放っておかれたかもしれないのに、欲にかられたのか仕返しだったのか、それとも単に生きていく為に必要だったのか・・・。

 

追われる身となったベリンガー博士は世界中渡り歩いていたらしい。

逃亡先で偶然、科学オークションサイト「蛇の果樹園」にBGのサイボーグ技術のデータを見つけた。

 

僕の出品したデータは、一般人にはバグの入った壊れたデータにしか見えない。

 

だけど、ブラックゴーストに携わった人なら、それがサイボーグ開発技術に関するデータだとわかるものに細工してあった。

 

現に、ギルモア博士や001は一目で見破ってしまった。

 

ベリンガー教授は、このデータの価値もわからない人が、偶然手に入れたデータを意味も分からずに出品したと思ったらしい。

 

買い取って、自分の知識と融合させ、どこかの軍事国家か組織に売り込めば、逃亡資金の足しになる。

うまくいけば、自分がその研究施設に迎えられるかもしれない。

そうなれば、身の安全も生きていく糧も手に入り、研究もつづけられて一石三鳥だ。

 

追い詰められた人の偏った希望的観測が、いくつかのやり取りでうかがえた。

 

 

僕は、ブラックゴーストのサイボーグ研究に携わった人と接触したかった。

 

ベリンガー教授に、このデータを完全なものにし、研究を引き継いでいく人を切望している組織がある、と教えた。

できるなら、自分が仲介しようか、と。

 

ベリンガー教授は、口の悪い002の言い方を真似するなら、文字通り「餌に飛びついた」ような状態で、直接取引に応じた。

 

こうして、教授と僕は秘密取引に臨むことになった。

 

データを直接会って売り渡し、その上で、

これを解読できるか、

研究を引き継げるか確認し、

研究者として、組織に迎え入れる。

 

そんな取り決めで、僕は取引に赴いた。

 

僕らしくない上に、褒められた手段じゃないのは分かってる。

だけど、他に思いつかなかったんだ。

 

 

「データは?」

震える指で博士は別のバッグから自分の小型パソコンを取り出そうとした。

「待て、私が持ってきたPCで開いてもらおう。」

 

万一のことがあるから、本当に重要なデータは おとりの餌になんか使ってない。

でも、この程度の情報でも僕らの体に関するものは絶対流出させるわけにはいかないから、展開する機械も他人のものを不用意に使えない。

 

僕は持参のパソコンを取り出し、ポケットのカードを入れた。小さな唸りを挙げて画面に意味不明な文字や図面が現れた。

 

「ああ、やっぱりそうだ。」

ベリンガーは汗をスーツの袖でぬぐいながら言った。

 

「これは貴重なデータだよ。今となってはまぼろしの・・・神の領域に踏み込む研究だ。」

「復元できるか?」

「ああ・・・やってみるが・・・、普通のマシン…いや、システムではできないんだ。このデータを開発した組織の、専用システムを使って初めて完全な復元・表記ができる。」

言いつつも、ベリンガーはキーボードを操作して、一般のコンピューターでもある程度復元して見せようと努力していた。

 

モニターの光に斑に濡れる横顔には、ある種の恍惚が浮かんでいたる。

かつて自分の栄光時代を思い出したか、これからの自分の未来に希望を見出したのか。

 

さらに気が重くなったけど、僕は僕でこの先の一手を考えなくちゃならない。

 

接触には成功したけどこれからどうしよう。

 

あの情報を持っているか確認したいんだけど、部外者が知りたがるコトじゃないし、逆に下手に尋ねたら大いに怪しまれるし。

どうやって話を持っていけばいいかな。

 

まずは僕を・・・Qを多少なりとも信頼してもらわなくちゃならないんだけど・・。

 

―――まだかな?

 

工場の天井近くに並んだ明り取りの窓は 青い空を四角く切り取って並べているだけだ。

―――そろそろ我慢できなくなる頃だけど。

 

「やっぱり普通のシステムでは限界だ。他の…BGのシステムで試さなくては・・・」

モニターを操作し続ける博士が告げる。

「その専用システムが使えるところがあるのか?」

「ひとつだけ、心当たりがあるんだ。少し遠いが…」

 

―――ほらほら、場所が替わっちゃうよ。早くしなくちゃ。

 

ガチャーン

天井ではなく、背後からガラスを破る音が響いた。

ベリンガーが仰天して手が滑り、僕はパソコンを危うく受け止めた。

「おいっ!こっちを向け。この、ブラックゴーストの残党め。」

この喧嘩口調、向こうっ気の強い言い回し。

誰が乱入してきたか、振り向かなくてもわかる。

 

顔の下半分を隠した襟の下で唇の端が上がるのを感じた。

 

 

 

 

 

「手を挙げてゆっくり振り向くんだ。」

言われる前からベリンガーは両掌を002のほうに向けて震えあがっている。

僕は手にしたパソコンを、片手でゆっくりと床に置こうと身をかがめた。

002が僕に警戒を強める。

 

その時ベリンが「ひぃ」と喉の奥で悲鳴を上げた。

「お前は…002!裏切りサイボーグ!」

002の僕への意識が一瞬それた。

 

僕はバッグを空いた片手でひったくると、工場の巨大なロースターの後ろに転がり込んだ。

002は僕を追って、やはり近くのコンベアの陰で銃を構える。

 

この隙にとベリンガーが出口へ走っていくのに、002は一瞥くれただけだ。

 

―――外に誰か、待ち伏せしてる!?

 

「教授!出るな。外に敵がいる!!」

今にも扉に手を駆けようとしていたベリンガーは、ぎょっとして高圧電流にでも触りかけたように手を引っ込めた。

 

002が舌打ちして飛び出してきた。

―――加速は…?してない!

 

彼は飛行能力はよく使うけど、加速装置は好きじゃない。

飛行のため軽量化された人工筋肉に加速状態は負担らしくて、長く使えないうえに、後で疲れてしまうとぼやいていた。

 

予想通り、彼は通常モードの速さでロースターに回り込もうとした。

 

それでも常人にとっては とんでもなく素早い動きだから、

普通の人間相手なら、たちまち頭に銃口を突きつけて、手を挙げさせていただろう。

 

でもごめん。今は ばれるわけにはいかないんだ。

 

僕は着ぶくれた服をひっかけないよう注意しながら、ロースターと床の間にすべり込んだ。

狭い隙間と床に付着した汚れに辟易しながら、バッグからトリモチバズーカを取り出して、寝そべったまま構える。

 

002が通常モードの、それでも滑るような動きでロースターに回り込んできた。

そこにいるはずのターゲットが消えて、一瞬、僕の前で足が止まる。

 

チャンス!

 

トリモチバズーカを彼の脚に向けて発射した。

ばふんっともボヒュッともいえぬ空気音を立てて、一塊の粘着剤が飛んだ。

「わっ」

いきなり脚を取られて002がコンクリートの床に倒れこんだ。

 

ロースターから這い出して間髪入れず二射目を彼の背中に発射した。

 

002は脚と銃を持った腕ごと 体を床に張り付けられて身動き取れなくなっていた。

 

―――コズミ博士、すごい威力です。

 

僕はベリンガー教授の腕をひっつかんで工場のフロア中央に走った。

 

外はダメだ。

 

僕は床の、下水道へと続く金属のふたを開けて博士を押し込み、あとに続いた。

地の底に続く梯子は先が見えず、中からは鼻が曲がるほどの悪臭が吹き上がっている。

 

ふたを閉める直前、ちらっと002が視界に入った。

彼は目前の敵を取り逃がしたことと、床に張り付けられた屈辱に、怒り狂っていた。

 

僕だとばれたら殺されるかな。

でも、君は思いもかけない動きをするだろ。早めに脚を止めておかなくちゃ。

 

僕は心の中で002に深く深く謝りながら、地下へと続く梯子を下りて行った。

 

「あれは002だ。裏切り者の・・・」

真っ暗な下水道を、僕の取り出した懐中電灯の明かりを頼りに進みながら、ベリンガーが言った。

 

下水道とはいっても、欧米の映画なんかでよく見る歩行用の通路のついた大きなトンネルだ。中央の水路は濁った水がちょろちょろ流れ、両側2mほどの高さに管理用の歩道がある。

 

―――やっぱり僕らの顔を知ってたのか。暑いの我慢して変装しておいてよかったな。

 

なんて思いながら、一応とぼけておく。

「所属していた組織の者ではないのか?」

「違う。例のデータを開発した…」

そう言いかけて、ベリンガーはごほごほと咳き込んだ。

 

無理もない。002が追ってこられないよう地下の逃げ道を選んだんだけど、生身の体にここの空気は悪すぎる。悪臭だけならまだしも、水に沈んだ腐敗物から有毒ガスが発生してるかもしれない。休日だから換気機能も最小にしてあるんだろう。

早く外に出なくては。

 

あらかじめ頭に入れていた下水道の構造図は 一番近い出口が近いことを示している。

 

後ろから ふわり とよどんだ空気が背中を押した。

自分たちが歩いてきた背後は真っ暗なトンネルが続いていたが、その先から湿った風が吹き付けて、それはどんどん強くなってくる。

 

やがて、轟々と唸り声のような音が接近してきた。

「水だ!」

叫んだ時には走り出していた。

 

鉄砲水の先端が、下水道に流れ込んだ。たちまち水位は上がってきて、歩道に迫る勢いだ。

 

さっきまで空気の悪さに咳き込んでいたベリンガーも必死の形相で走っている。

でも どんなに急いだところで、常人の脚が水の流れにかなうはずもない。

 

―――抱えて走ろうか。

―――だけど、ただの取引相手が会ったばかりの人をそこまで保護するのも疑われるかな。

―――出口まであと200mくらい・・・なんとか走り抜いて・・・。

 

ベリンガーの背中を見てあれこれと迷っていたけど、結論はすぐ出た。

老人には やはりきつい運動だったらしくて、ベリンガーは歩道にあふれてきた水に脚を取られて、転んだ。持っていたカバンは二つとも水の流れに飲み込まれ、あっという間に視界から消えた。

「ああっ、わしの・・・」

あろうことか、水に飛び込んで取りに行こうとするベリンガーを 僕はすんでのところで捕まえて、小脇に抱えて走った。

 

もちろん僕のバッグはもう一方の肩にかけてある。

パソコンもバズーカも、水に流すには惜しいもの。

 

地上に続く梯子に取り掛かった時、すでに水は膝のあたりまで来てて、時々下水のごみがすごい勢いで現れては消えていた。

梯子の最上部に捕まって、内側から金属のふたを押すと、マンホールは簡単に開いて、西に傾いたもののまだ強い太陽光の下、僕らは熱く焼けたアスファルトの上に脱出できた。

 

ベリンガーは座り込んで、新鮮な空気を肺に取り入れている。

 

怪我はないか一応聞いてみたけど、答える余力もないらしい。夏の日差しに焼かれた路上に座り込んで、ひたすら酸素を補給し続けていた。

 

荒地が間近に見えるけど、まだ工場地区の中らしい。

グレーの四角い建物に人の気配はなく、休日の眠りをむさぼり続けている。

 

―――人気はないのに、なぜ?

たしか この工場地区の下水道は定期的に水を流し、清掃を行う。溜まっていた汚物や廃棄物は最終的に いくつかのディスポーザーにかけられて処理施設に送られる仕組みだ。

つまり、水に流された廃棄物は、カッターで細かく刻まれ、バクテリアの餌になる。

 

食品工場の廃棄物をまとめて処理するには最適だけど、もし 間違って人が流されたら身元不明の死体にもなれない恐怖の下水道だ。

 

まあ、僕のばあい、カッターの刃のほうが壊れるだろうけど。

 

だけど、休日に下水道清掃を行うはずがないし、この工場地区は 今ほとんど無人のはずなのに。

どうして水が流れてきたのかな。

 

 

「やつらだ・・・。裏切りサイボーグどもが私を殺すつもりなんだ。」

ようやく息が整ってきたか、ベリンが低い声でつぶやいた。

 

―――まさか。いくら002でも狂暴すぎる。

昔のように「殺らなければ殺られる」状況ならいざ知らず、話も聞かず、いきなり生身の人間相手を殺しにかかるなんてありえない。

 

とは、否定しきれなかった。

 

トリモチにからめ捕られた002のかんかんに怒った顔が 脳裏に蘇ったから。

―――ばれたら殺されるかも…そう思ったんだっけ。

 

それにもう一つ、

002の・・・  002を含めて 仲間たちの ブラックゴーストに対する憎しみは、僕とは比べ物にならないほど深いものだからだ。